Yongik Kim
- dpwl5131
- 2014년 11월 3일
- 4분 분량

キム・ヨンイク《完全なる絶望》1990-2000
キム・ヨンイクの作品を見ることは、いろんな意味で、私にとてもうれしいことだった。 第一に、彼の作品の後に書かれた作品の一部と同じような書き込み、メモは、私にとって一番読みやすい韓国語で書かれているためだ。作品を見に来た観客たちが彼の作品に書かれた韓国語の翻訳を読んでいる間、私は作品だけを見て、彼の手で書かれた作品に関するメモを読むことができた。彼の作品が私にとって見やすかったのは、単にメモが韓国語で書かれているためだけではなかった。作品を作った意図や考えを作家自分の言葉で親切に解釈しておいたからだ。現代美術作品を見て、すぐ作品の意図をに判断するというのは非常に難しい。複雑であったり、時にはむしろ単純すぎてそれが何を意味していたのかさえ忘却することになるのだ。キム・ヨンイクの作品は、抽象的で観念的な公論ではなく、徹底した自己表現が書かれたため、このような現代芸術作品の流れから逆行する。
作家の今回の展示会の作品《完全なる絶望》は、過去の作品を消したり草の汁などで上塗りする方法を通じて、すでに一度完成した作品を解体し、再完成させた作品だ。自分の作品を自らリノベーションした後、その過程を徹底的にメモした。美術の痕跡を消すことを作家は長い時間をかけてゆっくりと進行してきた。彼は作品をそのまま放置した後、放置により生じた汚染やほこりも作品の一部とする。
また、彼の作品が印象に残った理由の一つは彼の作品の展示方法にある。このトリエンナーレに展示されたキム・ヨンイクの作品《完全なる絶望》は、門のように壁と垂直に展示されていたり(さらに、問い合わせの役割をするための取っ手もかかっている)、美術館の床に寝かせて展示されている。普通、作品の展示といえば壁に密着して、観客が見やすいようにかかっていがちだが、彼の作品の場合、完全に違う方式で展示されている。そうすることによって、観客の印象に残る作品のイメージも歪曲する。全体像を見れなかったり、作品そのものより彼が書き込んだメモが目立ってしまうからだ。彼の作品の中で最も見やすくに壁にかかっているのは、他ならぬ作品を包装していた紙のボックスである。彼は作品を解体すると同時に、決まった枠組みから外れた展示方法を選んだ。定型化された美術館の展示方法から脱した彼の作品は、どこか特別に見える。
キム・ヨンイクの作品はいわゆる一般的ではない。彼と一緒に展示された作品とは違うという話だ。それは完成を目的と描く作品とは異なり、彼の作品は完成された作品を再び解体して未完成に残した。彼の作品は一度完成という目的を達成したため、解体された彼の作品は目的から脱している。そして、作品を絶望という、他の目的の完遂として説明する。
現代美術で、興味深い部分は、総体性に対する反発を持っているという点だ。芸術ジャンルの間の閉鎖性や高級文化と低級文化の間の区分を拒否し、多様なところで借用してくるためさらに規定しにくいことだ。外れや亀裂のようなことで定義されることは、たしかに、縛られていて充足により定義されることとは違いがある。キム・ヨンイクの作品世界はエリート主義的な面があるからにも、モダニズムの極限を示す概念美術やミニマリズムとは、明確な差を見せてくる。意図的に上から重ね塗りしたり、メモを書き入れたり、作品に汚れやカビのような偶然の産物を収容した彼の作品は作られた時点から常に変化し、いつも未完成に残っている。彼はこれを「反省的」という表現を使う。いつも反省し、概念の中で非概念を見つけるまで、さらに概念的なアプローチをするものだと言う。総体性を持つモダニティーがいつも支配をしようとし、それ以外のものを排除しようとする属性を持つとすると、彼の作品はそれに対する反省の態度ではないかと思う。
作家は公式のようなの枠組みから脱して新しい代案を提示している。これとして、これまでの成立されてきた展示概念を揺さぶり、芸術とは何か、見る人に聞いてるようにみえる。体制と権力によって強要された記憶から抜け出すことを、悟ることを願っている。彼の作品は固定観念を忘れて、見えなくなったのを見えるようにしようとする努力の示すものだ。
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