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Andreas Gurskyの作品分析

  • 작성자 사진: dpwl5131
    dpwl5131
  • 2015년 2월 13일
  • 9분 분량

 Andreas Gurskyの作品分析~作品《Pyongyang》(2007)からの考察を通じて~

 アンドレア・グルスキー(Andreas Gursky)の写真作品は類型性を通じて、現代社会の空間に文化的意味を付与しているように見える。アンドレア・グルスキーの作品で注目すべき部分は、幾何学的・水平垂直的要素を強調している視点とそのアングルである。彼の写真は、時には非現実的に感じられる。それは演出された写真ではないにもかかわらず、同じ形が繰り返される反復と配置は、現実と信じるにはあまりにも人工的で、冷たい構造だからだ。しかし彼の作品は、人工的な現代社会を投影するとともに、一方では、抽象的でただ美学的でもある。

Andreas Gursky《Pyongyang》シリーズ2007年、写真

 彼の作品の一つである《Pyongyang》(2007)のシリーズは、グルスキーが何年間にわたる交渉の末に撮影許可を得て、北朝鮮筋・現代史の重要事件を扱った北朝鮮のアリラン祝典を撮影した写真である。これはよくカードセクションとして呼ばれる大規模な群衆のプラカードの全景と数千人の体操選手、舞踊家、軍人らが披露するアリラン公演の現場を撮影している。この作品は、特に数万人の人員が参加した群舞を繊細に表現したという評価されている。

 作品として考えるまえに、北朝鮮の日常を撮影した写真はいつも関心の対象。一般人だけでなく、美術界のコレクターたちも、北朝鮮関連作品は、特別な関心を示す。グルスキーの《Pyongyang (2007)のシリーズの《Pyongyang IV》(2007)は、実際、世界で高い額で販売された写真作品の一つである。作家によって異なるが、基本的に地球上の唯一の閉鎖的な国家を盛り込んでいるという、作品の希少性と記録的な価値が価格を上昇させる。特に、グルスキーが撮影した北朝鮮のアリランのマスゲームは、グルスキーが一貫してきた作品スタイルとも相通じる。彼は証券取引所や大型マート、組立工場などで、平面的で機械的に非人間化された労働現場を巨大なスケールで作品化してきた。主体性が喪失されたおもちゃのような人間の無気力とその中の厳格な配列と秩序が彼の写真の特徴だ。外部の視線で眺めた北朝鮮は、特殊な国家とその集団性に焦点が当てられている。

共産主義の産室になったソ連と中国が政治的、経済的開放を宣言し、理念よりも市場が支配する世界秩序が普遍化された今、世界で唯一である監視体制で有名な北朝鮮は、多くの西欧の現代美術家たちが独特のテーマにしたい社会だ。国家が主導する大規模な宣伝事業と映画撮影の現場のように一糸不乱に組織化された市街地、疲弊した経済状況にもかかわらず、主体思想という独特のイデオロギーで武装したまま顔に満面の笑みを浮かべた北朝鮮社会の一員は、その裏面の政治的目的や理念的背景と離れて、極端的まで異質的で生々しい対象と認識される。地球上どこにも見られない統制によって、北朝鮮の実際を経験した西欧人たちが極めて少ないという事実も、この社会に対する好奇心と関心を高める。  グルスキーは、2005年9月に7回もこの行事にピョンヤンに行き写真を撮ったが、動くシーンが多かった対象であったため、満足な結果を得ることが難しかったという。結局1ヵ月後に再び北朝鮮を訪問し、5メートルの高さの金日成の肖像のすぐ隣に席を取り、やっとグルスキーが得ようとしたイメージを探せたという。対象との距離が遠ざかり、カメラが共演する人たちの動きを彼の方式でコントロールできたといった彼の意図は、製作の初期過程から最後のプリントに至る前の過程で重要な枠組みとして作用する。

 グルスキーの写真が読解可能な確定的な批判のメッセージを表していたなら、北朝鮮政府は撮影を許可しなかっただろう。グルスキーのアリラン公演連作は、一目にもマスゲームが演出する幾何学的文様の崇高美で輝く。批判の余地がない。しかし、観点によってこの群衆のパターンは、迂回的な批判として解釈される。観客にはグルスキーのアリラン公演の大衆装飾(mass ornament)は、現役社会主義国家の硬直と計画経済の閉鎖に対する話と読めることができる。

興味深い点は、同じ現場を撮影した写真でも撮っている人が誰かによって、もしくは観客が誰かによって、テーマが変わり得るということだ。同じ民族であり、反共イデオロギーから自由にできなかった、それため完全な部外者も内部もなく、韓国人として北朝鮮を撮影した作品を見ることは、それがまた韓国人である私にとっては、グルスキーとは違った印象をあたえる。

ノ・スンテク《Red House》2007年、写真

グルスキーに先立ち、アリラン祝典を撮影したノ・スンテク[ノ・スンテク(1917~)、韓国の写真作家]分断をテーマに活動しているの作品がある。ノ・スンテクは写真集「Red House」で巨大なスケールの集団体操をはじめ、相手を探索する過程、分断がもたらした韓国の暴力的で非理性的な姿を順に提示する。作家は作品をスペクタクルで華やかながら力を誇示しようとする強迫観念のような集団体操の裏面を覗き、その原因がもし私たちにいるのではないかと反問する一連の作業だと説明する。

グルスキーがマスゲームで人間が作った最高水準の集団性を表しているとしたら、ノ・スンテクは、その集団性の裏面と原因を覗いている。また、個々人に対する関心も隠さない。集団体操やマスゲーム中に小さな動作の不一致やカードの向こうに顔を出した好奇心に満ちた表情などで、作家が言おうとしてるテーマを推測できる。このような他の視線の違いは、グルスキーのような外国作家には壮大なスケールが先にする傾向があるだろうが、韓国人というアイデンティティーを持った以上、完璧な外部者も内部者でもないために発生する。

 しかし、グルスキーの作品は、個人の主体を完全に無事ていると言えるだろうか。

の写真には、彼自身が人間の姿を遠くから眺める視線がよく表れている。彼の作品の中には、機械的な普遍妥当性が蔓延している。このような非人格的に圧倒する効果は、距離感という要素で彼の日常周辺にいる現実世界を写真で作品化する方法によって形成される。それは写真を撮るといった単純な現象ではなく、最新の実状を視覚的に画幅に再構成でいるように見える。このように、彼の作品での効果は、写真の材質的な要素でみられる機械的な特性やデジタル化で、現実の本質を人為的に変化させる膠着映像であるといえる。その土台には、やはり驚くほど精密に捉えた解像度だ。したがって、彼の作品に写っている人と事物は、集団性によって完全に消されるのではなく、一つ一つ明確に作品の中で存在を現している。

 私たちの目は、見える全てのことを同時に見ているようだが、事実、特定したところに焦点が当てられている。視野に入ったすべてを同等に認知するなら、我々の脳はたぶんストレスの中から抜け出すことはできないだろう。厳密な意味で観るということは、焦点の連続線上であり、順次面と立体の構成を認知しているものなのだ。焦点が一か所になると周辺はボケて立体的となる。時には眺める位置によって平面的な見方も可能である。初めて熱気球に乗った時の経験を忘れられない。同一の目線の事物を認知した時、私たちの目は、少しの衝撃を受けることになる。遠近感のない平面を認知するようになるからだ。 アンドレアス・グルスキーの写真は、このような視覚的衝撃が内在されているように見える。

 また、グルスキーの作品は、撮影対象の選択と場面を描いて出す方式だけでなく、超大型プリントの規模が写真の核心的な部分である。グルスキーは普通の縦5インチ横7インチの大型フォーマットで作品を撮影する。作家は数百枚あまりのこのような写真をパソコンにスキャンした後、事後のデジタル作業過程を通じて片面が3メートルに達する一つの大型作品に転換させる。 一見、ストレートの写真みたいな彼の作品は緻密な計画と操作を経て、最も自然な結果を得る矛盾的な過程で誕生するわけだ。

 その写真の大きさは普通の人の背をはるかに超える拡大された写真で展示される。こうした点は観客にとってほとんどその場面に陥るような感覚を与え、まるで芸術家が撮影した瞬間と同じ経験をさせる。作品の前に立つと、まるで大きな窓を通じて私の前に開かれた都市の光景を直接体験している錯覚を呼び起こす。その写真の中に入ると、しるされた対象を明確に提示されているため、一枚同様に似ている形が反復的に配置されているということを確認できる。最近、グルスキー作品は人間の消耗や消費そしてこのようなものが地に及ぼす影響を観察して、鋭く非形的な見解を示している。被写体の確定的事件を、単なる再現にとどまらず、たった一つの画面で新しい真実を発見するように観客を慫慂する。

 このような点で、グルスキーは社会全体だけでなく、個々人の主体まで作品で扱っているといえる。

 抽象と構想、巨大な風景と微細な存在、実際と仮想など対照的な世界を自由に行き来するグルスキーの作品は、写真という媒体が持つ特性と長所を最大限活用する。「百聞は一見に如かず」という言葉で見られるように、我々は目で直接見る行為が他のどのような経験より、事実に近いという信念を常識的に持っている。グルスキーは、客観的な事実を記録するという写真の特性を強調しながらも、一方ではこのような客観性自体が操作されたものか虚像かもしれないという点を指摘する。全地球的に拡散されている産業化と観光業、資本主義などを扱う彼の作業が、最も現実的かつ同時代的な主題を扱ったドキュメンタリー番組の側面から理解される可能性もある反面、事実の記録という単純な枠組みで解釈できないという点は、彼の作品世界を豊かにする重要な逆説である。

 グルスキーの写真の中に表象的に表れる様子は、実在的な建物と都市環境であり、それはまた退屈な日常の一面を見せているだけかもしれない。しかし、彼の作品がそんなに簡単に見えないのは、もしかしたら、我々の日常が大きな構造の中にいう型にはまっていると、突然近付く一種のめまいである。絵画の固有の特性な崇高さと壮大さを持った彼の作品は、今日の世界が共通的に持つ多くの質問と問題を写真でもう一度考えさせる。直接的な批判や具体的な説明の代わりに、グルスキーはイメージの捕捉と再生産を通じて、世界を眺める我々の目をもっと広い範囲に拡張させるのだ。

  参考文献                                     

  • シャーロット・コットン、『現代写真論』、晶文社、2010

  • デイヴィッド・ベイト、『写真のキーコンセプト:現代写真の読み方』、フィルムアート社、2010

  • Yoonhi jung, "Zusammenfassung : Globalisierung und urbane Phanomene als

  • “Raum der Strome” und “Nicht-Orte”-In Bezug auf Andreas Gurskys Fotografien", 2011

  • Marie Luise Syrin, Lynne Cook, Rupert Pfab, Kunsthalle Dusseldorf, "Andreas Gursky: Photographs from 1984 to the Present",Te Neues Pub Group, 2001

  • Martin Hentschel, "Andreas Gursky: Werke/ Works 80-08", Hatje Cantz Pub; Bilingual, 2011


 
 
 

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